吉野作造記念館デジタルギャラリー

A-2-009

[吉野と家族]

たまの夫人・子どもたちと自宅にて 赤松克麿・安部磯雄とともに

写っている人物は図のとおり。撮影年次を正確に同定できないが、人物の年齢から類推して1922年(大正11)前後のものと思われる。写真中、赤松克麿は東京帝国大学法科で吉野の指導を受け、新人会創設(1918年)を担った他、後に無産政党運動に参画、1928年(昭和3)の第1回普通選挙(第16回衆議院議員選挙)では岳父である吉野の郷里(宮城県1区)から立候補した。赤松と作造次女・明の入籍は1923年(大正12)3月であり、その翌月には作造長女・信が夫・土浦亀城と米国留学に出発(帰国は1926年)していることから、写真の時点ではまだ入籍前か少なくとも入籍直後である。安部磯雄と吉野が無産政党運動で具体的に行動を共にし始めるのは、吉野が独立労働協会に参加した1926年(大正15)1月頃からと考えられるが、それ以前にも1920年(大正9)の森戸事件でともに特別弁護人として出廷している。この頃には自宅に招くなどの親しい関係であったことがうかがえる。