吉野 作造~大正デモクラシーの旗手~
◆吉野作造の原点
吉野作造は1878(明治11)年、現在の大崎市古川十日町(旧志田郡大柿村)で、糸や綿を取り扱う商家「吉野屋」の長男として生まれました。
小学校を卒業後は、仙台の宮城県尋常中学校(今の仙台第一高等学校)、第二高等学校(今の東北大学)へ進学。特に高校時代に出会った、キリスト教の自由と平等を大切にする教えは、吉野の思想の基礎になりました。その後、東京帝国大学(今の東京大学)へと進み、政治学者の道を歩み始めます。
大学卒業後は教師として中国へ渡り、またヨーロッパへと留学しました。大きく変化しつつある世界をみずから観察した吉野は、社会を動かすためには民衆の力が重要であることを学んだのです。
◆民本主義~すべての人に選挙権を~
吉野は1916(大正5)年、雑誌『中央公論』に発表した「憲政の本義を説いて其有終の美を済〈な〉すの途〈みち〉を論ず」という論文で、「民本主義〈みんぽんしゅぎ〉」という言葉を使い、「デモクラシー」つまり民主主義の必要を説きました。
その頃の日本では、選挙権が多額の税金を納める人に限られていたため、多くの国民は政治に参加できませんでした。これに対して吉野は、政治は国民の幸福のために、国民の意見によって行われなければならないと主張しました。吉野が説いた「民本主義」は、より良い政治を求める国民に広く受け入れられ、1925(大正14)年の普通選挙法制定につながっていきました。
ヨーロッパ留学時代の吉野作造
(1910年頃)
吉野作造(1917年2月)
◆互いに支え合い、尊重し合う社会をめざして
吉野は理論だけではなく、実行の人でした。新聞や雑誌で多くの意見を発表したほか、講演で全国を飛び回りました。また東アジアの親善友好や、経済的に苦しい境遇にある人々を支援するセツルメントなど、政治学者の枠を越えて幅広く活動しました。特に、日本政府と対立していた中国や朝鮮の人びとと盛んに交流し、相互の理解に努めたことは現在でもよく知られています。国や立場の違いを越えて、一人一人が対等な人間として互いを尊敬し、責任を分担して支えあう――それが吉野の思い描いた、民主主義の社会でした。
書斎での吉野作造(1921年11月19日)
吉野作造(1920年頃)
◆現代に生きる吉野作造
関東大震災の後、大正デモクラシーの自由な空気が次第に影をひそめていく中でも、吉野は人間の進歩、民主主義の進歩を信じていました。そして、長い戦争の時代が迫りつつあった1933(昭和8)年に、55歳で世を去ります。
その後、日本は民主主義の国となりました。しかし、民主主義を守るとはどういうことでしょうか。吉野は次のように語っています。
私たちが最も心がけるべきことは、今現在正しいとされることを守り続けることよりも、常により正しいことを追求する向上的な態度をもつことでなければなりません。
民主主義の担い手であるわたしたちひとりひとりへの呼びかけとして、吉野の言葉は今も色あせることなく、光を放ち続けています。
年 譜
1878年(明治11) 宮城県志田郡大柿村(現・大崎市古川十日町)で生まれる。
1884年(明治17) 古川尋常小学校(現・古川第一小学校)に入学。
1892年(明治25) 宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)に入学。
1897年(明治30) 第二高等学校(旧制・仙台)に入学。
尚絅女学校(現・学校法人尚絅学院)校長アニー・S・ブゼルの聖書教室に参加する。
1898年(明治31) 仙台浸礼教会牧師・中島力三郎から洗礼を受ける。
1900年(明治33) 東京帝国大学法科大学に入学。本郷教会の活動に参加する。
1905年(明治38) 最初の著作『ヘーゲルの法律哲学の基礎』を刊行。
1906年(明治39) 袁世凱の長子・克定の家庭教師として雇われ清国に赴任(~09年)。
1909年(明治42) 東京帝国大学法科大学助教授に就任、政治史を担当。
1910年(明治43) 政治史及び政治学の研究のためヨーロッパ留学(~13年)。
1914年(大正3) 東京帝国大学教授に昇任。
1916年(大正5) 論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を『中央公論』に発表。
1917年(大正6) 東京帝国大学学生基督教青年会理事長に就任。
1918年(大正7) 福田徳三らと黎明会を結成。
1923年(大正12) 関東大震災に際して起こった朝鮮人虐殺事件について真相の究明に取り組む。
1924年(大正13) 東京帝国大学を辞し朝日新聞社に編集顧問兼論説委員として入社も舌禍事件で退社。
明治文化研究会を設立。
1926年(昭和元) 右派無産政党・社会民衆党の結党に協力。
1930年(昭和5) 『明治文化全集』(全24巻)が完結。
1933年(昭和8) 逗子の湘南サナトリウムで死去(55歳)。
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