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吉野作造記念館デジタルギャラリー

A-2-004

[吉野と家族]

1907年(明治40)3月25日

たまの夫人・光子(三女)と天津にて(外1名含む)

写ってる人物は、右から順にたまの(作造夫人)・作造・光子(作造三女)、左で光子を抱いている人物は不明。袁世凱の長子・克定の家庭教師の職を斡旋された吉野作造は、1906年1月から妻・たまの、三女・光子を伴って清国に赴任した(A-1-020の解説も参照)。清国に滞在した約3年間のうち、1907年のみ日記が残っている(1909年の日記も残っているが、同年は1月9日には天津から出国、1月23日には東京に帰着した)。この写真の日付である同年3月25日条には「此日ヨリ督練処ニ戦時国際公法ノ講義ニ行ク…皆能ク日本語ヲ解ス何レモ督練処ノ高官ナリ」とあり、軍人相手に国際法の講師業を始めていた(『吉野作造選集』13巻、所収)。

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