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吉野作造記念館 電子展覧会 No.1

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Ⅱ 仙台での青春
1892年(明治25)、14歳になった吉野作造青年は郷里古川の親元を離れ、仙台の宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)に進学しました。当時、宮城県に中学校は1つしかなく、古川から進学するのは吉野が初めてでした。宮城県尋常中学校では、校長で国学者の大槻文彦から親しく教えを受け、特に倫理の授業では世界に関心を向けることの大切さを教わりました。吉野は後に、「偏狭な島国根性の蒙をひらかれた」(吉野「日清戦争前後」1933年)と回想しています。
文筆や雑誌作りへの熱意は中学校でも変わらず、校内での回覧雑誌『如蘭会雑誌』は、大槻文彦校長を会長にほとんどの生徒が会員になり、吉野は雑誌編集をしながら自分でも文章や和歌を掲載しました。
1897年(明治30)には同じく仙台の第二高等学校(旧制、戦後に東北大学に包摂)に進学します。第二高等学校では国文科の佐々政一(醒雪)から学術的な文章を書く指導を受けたほか、雑誌部で学友会誌『尚志会雑誌』の編集に参加しました。この頃から次第に文芸的な趣味から経世への志に変わっていきます。
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